神と数学の複合領域
学会に出かける日の朝、ふとラジオをつけると「ラジオ宣教師」なる人物が説法をしていました。
記憶が確かならば、このような内容だったと思います。
みなさんは、身近にあるものの存在が確かだと感じることができます。
しかし、実際には目に見えないもの、手に触れられないものの存在も、きっとそこにあると確認することができます。例えば、机やペンと言った実際に存在するもの、あなたが今食べている朝ごはん、といったものが実際に手を触れたり、見たりすることができるものです。
ここまで、僕は「フムン、なるほどな」と納得しながら聞いていたが、その後に続いた言葉には耳を疑いました。
実際に目で見たり、手で触れたりできないものの例には、\(i\)(アイ)があります。
神は、皆さんに\(i\)(アイ)を授けます。
神は\(i\)(アイ)の道なのです。
といきなり複素数の話を始めるのです。
かつて、僕の友人はこのように言っていたことを思い出しました。
「創世記では神は”光あれ”と言ったらしいが、そうじゃない。創世記では\[\nabla \cdot \boldsymbol{B} = 0\]\[\nabla \times \boldsymbol{B} = 0\]\[\nabla \times \boldsymbol{D} = \boldsymbol{\rho}\]\[\nabla \times \boldsymbol{H} = \boldsymbol{j}\]の4つの式を唱えたんだ。そして光が生まれた。」
1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
「科学は検証と疑いの道」
「宗教は信仰の道」
とは言いましたが、ラジオ宣教師もなかなかにいいことを言うじゃないか、実際に確認できない神は複素数平面にいるのだと考えるのは理にかなっているな、と私は痛く関心したのでした。
皆さんお考えの通り、\(i\)(アイ)はすべて「愛」です。至って普通の布教番組でした。